就職から1年あまり経たころ、そんな茂三郎にチャンスが訪れた。東京に本社のある明治電気が経営不振に陥り、名古屋分工場の閉鎖と機械設備の売却を決めたとの情報が入ってきたのだ。明治電気では50馬力級のモータ、変圧器の製造、販売、修理を行っていた。茂三郎はすぐさま父親に懇願して資金援助を受け、設備の買い取り契約を結んだ。また同時に明治電気に対して工員派遣も要請したが、ここで指名されたのが後藤十次郎である。この十次郎がのちに会社の礎を築くことになるとは、誰ひとり知る由もなかった。
十次郎の掛け声に背中を押され、従業員たちは手探りで新しい製品の種を探した。そして1957年、長年培われた当社のモータ生産技術を活かすことのできる「携帯用電気カンナ」の開発に着手した。試行錯誤の末、翌1958年、ついに国産初の携帯用電気カンナ(モデル1000)が売り出された。これまでの主力製品だったモータとは、生産プロセスも違えば、販売先もまったく違う。しかし従業員たちは製品の性能に自信を持っていた。モデル1000は未経験者でも経験者と同じように作業できるうえ、仕上がりが均一で美しい。しかも輸入品に比べ圧倒的に安い。発売後ほどなくモデル1000の評判は広がり、全国の建築木工業者から好評を博した。こうして当社は電動工具の専門メーカーへと転換していったのである。
一方、販売面では、海外に現地法人を相次いで設立し、輸出の拡大を推進した。1970年には当社初の海外現地法人としてマキタ・アメリカを設立し、翌年には後藤昌彦(現取締役会長)らが派遣された。しかしアメリカは電動工具の本場であり、数多くのメーカーがしのぎを削る激戦区である。一向に道は開けず、1973年には為替の変動相場制の導入により急激に円高が進み、マキタ・アメリカの経営状況は悪化していった。しかし「不況時こそ積極経営」の経営方針に従い、シカゴやロサンゼルスなど主要都市に営業・サービス拠点を構え、顧客要望にきめ細かく応えていった。そんな中、トヨタやソニーなど日本製品の質の高さが、アメリカでも注目され始めたことをきっかけに、少しずつ売上が伸び始めた。その後はコストパフォーマンスの良さと、質の高いアフターサービスがユーザーや販売店から評価され、マキタ製品は確実に北米市場へ浸透していった。 アメリカに次いでフランス、イギリス、オーストラリアと次々に現地法人を設立して市場を拡大、各国の情勢に即したきめ細かな営業戦略は着実に効果を発揮した。こうして当社は「世界のマキタ」へと成長していったのである。
輸出を続ける以上、どんなに企業努力を重ねても、為替リスクは避けられない。克服するには、現地生産のさらなる増強が必須である。すでにアメリカ、ブラジルで現地生産を開始していた当社は、1991年イギリス、1995年中国においても電動工具の生産を開始。海外工場への生産シフトを推進し、輸出企業から真のグローバルカンパニーへと転換していったのである。
開発面では2005年、業界に先駆けてリチウムイオンバッテリを搭載した充電式インパクトドライバの販売を開始。バッテリの長寿命化と小型・軽量・ハイパワー化に成功した。また同年、低振動機構(AVT:Anti Vibration Technology)を搭載した電動ハンマドリルを発売。従来機に比べて作業能率を20%向上させたうえで、振動は約30%低減した。これらリチウムイオンバッテリ製品とAVT製品は市場に大きなインパクトを与え、大幅な売上増に繋がったことはもちろん、当社の高い技術力を世界に知らしめ、マキタブランドのイメージアップに大きく貢献した。マキタは2015年、創業100周年を迎えた。次の100年に向けて打ち出した最も大きな戦略の1つが、「エンジンから充電へ」である。電動工具で培った独自のモータ技術と充電技術を活かし、エンジン式が主流のOPE製品の充電化を推進し、いかなる経営環境のもとでも永続していくために、脱炭素社会の実現に向けて今後も様々な新しい挑戦に取り組んでいく。